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新選組一番隊組長、沖田総司藤原房良。 |
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余りにも有名な、真明院照誉貞相大姉こと、沖田氏縁者。 沖田ファンであるなら、一度は耳にしている事だろう。 だが、ここはあまり馴染みの無い人のために、少々説明を付けておく事にする。 新撰組隊士の墓所として知られる、京都府京都市下京区光縁寺。 ここに沖田氏縁者と刻まれた墓碑が存在するとともに、過去帳、新撰組隊士の中に、
沖田総司幻の恋人といわれている女性なのである。 |
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| 新選組が当初、屯所として使用していたのは八木邸である。 ところが人数も増え、段々と狭くなってきたので、前川邸も本営として使用する事となった。 この時、壬生村郷士名寄主で医師でもあった浜崎大輔宅が、 新選組医料手当所となったため、池田屋事変後、負傷隊士の治療に当たったのは、 会津藩差し廻し御側医吉岡将玄、高幡須と浜崎家の浜崎トク女等であった。 そして、このトク女には石井秩という娘が看護婦として付き従っていた。 池田屋で昏倒した沖田はここへ運ばれ、秩と出会う事になる。 秩は、天保十五年十一月十八日、山城乙訓郡西本生邑百姓石井忠左衛門の娘、 生まれ、気質よく、良家名主の娘といわれ、小柄で色白く、総司の姉ミツに似た娘で、 菊石(あばた)はあったが美人であったと、浜崎家を知る人は明治まで語り伝えたという。 当時浜崎新三郎の養女分であった秩には、ユキという一人の連れ子がいた。 総司はユキを連れて、よく壬生寺へ遊びに出かけたといわれる。 そんなこんなで秩と総司、二人の間にはキョウという女の子が生まれた。 時に慶応二年十一月五日のことであった。 翌三年二月、総司は病のため血を吐いて倒れる。 そして秩もまた、病がうつったのかどうか原因はわからないが、 慶応三年四月二十六日に没する。 葬儀には新撰組隊士は参列せず後の墓碑の施主である、 酒井意誠、浜崎夫妻、石井家の人々等だけの、質素なものであった。 |
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| 明治四年に三女児を失った酒井意誠は、山口勝元という人物の二男、 新次郎を養子とするとともに、浜崎新三郎宅に預けられていたユキを養女として 新次郎と結婚させ、妹のキョウと二人とも酒井家に引き取った。 この説を半ば裏付けるかのような事実がある。 以降の酒井家には代々、子孫に「司」の名を伝え先祖の霊に仕えるように… との遺言をするようになり、酒井意誠の二男は「寛司」、その子供は「富司男」、 その子供は「誓司」とそれぞれ名付けられた。 ユキは沖田との関係を唯一の自慢にしていたと言われている。 さらにキョウは明治三十一年、奈良県南葛城郡御所町千四番地磯田守康と再婚しているが、 その子の名前は「貞司」という。 もしこの話が本当だとしたら、沖田は残し逝く子供を前に、どのような心境であったろう。 力無く四股を踏んだその青空には、一体何がうつっていたのだろう… 参考…「歴史と旅」昭和55年11月号「謎と異説の新撰組」
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医料所の看護婦と総司の関係、まさに風を継ぐもの! |