沖田総司余話壱

沖田、幻の子供

新選組一番隊組長、沖田総司藤原房良。
彼に恋人がいたかも知れない、と言ったら驚かれるだろうか。
それでも驚かない方、婚約していた…ではどうでしょうか。
ハイハイ、沖田氏縁者の事でしょ。と思った方、
では子供がいたと言ったら、まだ驚かずにいられるでしょうか。
その子供の名はキョウ。そして妻の名は秩。
勿論これは、異説の域を逸しないものではあるが、
その子孫という者が、今も生きていることを付け足しておく。

 
沖田氏縁者
余りにも有名な、真明院照誉貞相大姉こと、沖田氏縁者。
沖田ファンであるなら、一度は耳にしている事だろう。

だが、ここはあまり馴染みの無い人のために、少々説明を付けておく事にする。
新撰組隊士の墓所として知られる、京都府京都市下京区光縁寺。
ここに沖田氏縁者と刻まれた墓碑が存在するとともに、過去帳、新撰組隊士の中に、

過去帳
土(土葬の事) 慶応三年四月二十六日
真明院照誉貞相大姉 沖田氏縁者
片鉢式 大阪 酒井意誠吊
※()は筆者
とあり、この沖田氏縁者なる人物が、
沖田総司幻の恋人といわれている女性なのである。
 
新選組が当初、屯所として使用していたのは八木邸である。
ところが人数も増え、段々と狭くなってきたので、前川邸も本営として使用する事となった。

この時、壬生村郷士名寄主で医師でもあった浜崎大輔宅が、
新選組医料手当所となったため、池田屋事変後、負傷隊士の治療に当たったのは、
会津藩差し廻し御側医吉岡将玄、高幡須と浜崎家の浜崎トク女等であった。

そして、このトク女には石井秩という娘が看護婦として付き従っていた。
池田屋で昏倒した沖田はここへ運ばれ、秩と出会う事になる。

秩は、天保十五年十一月十八日、山城乙訓郡西本生邑百姓石井忠左衛門の娘、

生まれ、気質よく、良家名主の娘といわれ、小柄で色白く、総司の姉ミツに似た娘で、
菊石(あばた)はあったが美人であったと、浜崎家を知る人は明治まで語り伝えたという。

当時浜崎新三郎の養女分であった秩には、ユキという一人の連れ子がいた。
総司はユキを連れて、よく壬生寺へ遊びに出かけたといわれる。

そんなこんなで秩と総司、二人の間にはキョウという女の子が生まれた。
時に慶応二年十一月五日のことであった。

翌三年二月、総司は病のため血を吐いて倒れる。

そして秩もまた、病がうつったのかどうか原因はわからないが、
慶応三年四月二十六日に没する。

葬儀には新撰組隊士は参列せず後の墓碑の施主である、
酒井意誠、浜崎夫妻、石井家の人々等だけの、質素なものであった。
 
ユキとキョウ
明治四年に三女児を失った酒井意誠は、山口勝元という人物の二男、
新次郎を養子とするとともに、浜崎新三郎宅に預けられていたユキを養女として
新次郎と結婚させ、妹のキョウと二人とも酒井家に引き取った。

この説を半ば裏付けるかのような事実がある。
以降の酒井家には代々、子孫に「司」の名を伝え先祖の霊に仕えるように…
との遺言をするようになり、酒井意誠の二男は「寛司」、その子供は「富司男」、
その子供は「誓司」とそれぞれ名付けられた。

ユキは沖田との関係を唯一の自慢にしていたと言われている。

さらにキョウは明治三十一年、奈良県南葛城郡御所町千四番地磯田守康と再婚しているが、
その子の名前は「貞司」という。

もしこの話が本当だとしたら、沖田は残し逝く子供を前に、どのような心境であったろう。
力無く四股を踏んだその青空には、一体何がうつっていたのだろう…

参考…「歴史と旅」昭和55年11月号「謎と異説の新撰組」
 
最後に

医料所の看護婦と総司の関係、まさに風を継ぐもの!
事実は演劇より奇なり。迅助は今日も走っているかな…


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